『カーテンレール』
「ねぇ、なんでさぁ、百合が着替えてるのにカーテン開けっ放しにしてるの?心配じゃないの?」
美波が叫ぶように言う声で目が醒めた。
バタバタと近づいてくる足音に、ほんの一瞬のソファでのうたた寝さえ邪魔されるなんて、と舌打ちをしそうになる。
「ここ4階だよ? どこに一軒家からうちをダイレクトに見上げる人がいるんだよ」
「家挟んで向こうにだってマンションあるじゃん!ほら!ほら!斜め左にだって同じ高さのマンションあるじゃんよ!こないだも言ったよね?百合の着替えのときは気をつけてって。何回言ったら分かるの?シャワー浴びるときにくつ下起きっぱなしだったり、使ったタオルそのまま干しておいたり、何回言ったらわかるの、だいたい・・・」
はいはいごめん、ごめんて、とソファから起き上がりカーテンを閉めると、百合が困った顔をしてこっちを見ている。
「はい、百合ちゃん、大丈夫だよー、お着替えつづけようね」
そう言う俺に、素直に、うん、と言ってパジャマのズボンを脱ぐ。
「百合も、ちゃんとカーテン閉めてお着替えって覚えてね」
百合は美波にも、うん、と言ってスカートを履いた。
「ねぇ、なんでさ」
俺が言いかけると、美波がどう見てもウェルカムじゃない、は?という顔でこっちを見るので、いや、いいや、と止める。
なんで、着替えを見られるのは気にするのに、しかも見えやしないのに、最低気温がマイナスになりそうな日にスカートを履かせるんだろう、と思う。
タイツを履くからあったかいんだよと美波は言っていたけれど、膝から下がタイツ1枚だけなんて子供には寒いんじゃないかと思う。
遊び回るから汗をかいてちょうどいいのだろうか。
「百合好きなんだよねー、そのスカート、お友達にも評判でかわいいかわいいってねー」
まるで俺の気持ちを読み取るように美波が言う。
俺はたまらず、それはよかったねーと百合の脇に手を入れて持ち上げた。
「じゃあ行ってくるねー」
ママ友たちとごはん、と言っていた美波は、俺と出掛ける時よりもずっとオシャレに気を遣っているように見える。
変な格好をしていると何か言われるんだろうか、大変だな、とも思う。
「私たちが外にいると一人でゆっくりできていいでしょ?」
玄関でそう言う美波に、そんなことないよ、と言ってもどこかほっとしているのがバレているんだろうなと思った。
この部屋は、美波と二人で住むために買った。
子供はいなくてもいいよね、と美波が言うので、僕も別にいいんじゃない?という気持ちでずっといた。
それがいつか、なにかあったのか美波が急に子供が欲しいと言い出した。美波が33歳で俺が32歳の時だった。
早いわけではないし遅くもない年齢で、ちょうどいいからいいんじゃないか、と俺は年齢だけで考えていた。
百合が生まれてからそれから美波はまるで別人のようになっていった。
全然寝られないなかで、部屋の掃除を完璧にし、俺がつまみのカスをラグに落としただけで般若のように怒り狂っていた。
百合をかわいいと思う分だけ、家のなかのものや会話や買い物すべてのことに気が張っていった。
カーテンもこの間買い替えたばかりなのに、昨日は、花粉アレルギーが心配だから花粉がカットできるものに買い替えたいと言い出した。
もういろいろ言うのも面倒でしかなくて、ただ、いいんじゃない、とだけ言った気がする。
カーテンを開けると、目下には一軒家がある。屋根の上にアンテナが不安定に置いてあって、美波はそれが台風のときにでも飛んでくるんじゃないかと気にいらないらしいけれど、俺には実家を思わせる風景で安心する。仮に飛んで来たってたいした被害もないだろうと思う。
その向こうにはここと同じくらいのマンションが建っている。
ここよりもあとに出来たけれど、景観を合わせたようにタイルの色がうちと全く同じだった。
あのマンションを見るたびに、同じ目線の窓の向こうに、もう一人自分がいるような気がして来る。
子供を寝かし付けて、朝起きて、ごはんを食べ、仕事をし、帰宅をし、子供を風呂に入れたり、奥さんの一日の話を聞きながらテレビを見る。
昔では考えられなかった早い時間にベッドに入ったりするだろう。
そしてまた目を覚まして、ごはんを食べ、仕事にいき・・・そんなことを毎日毎日何年も何年も続けていくうちに、年をとり、子供が成長し、気がつけば定年なんてすぐで、あぁ幸せだったなぁと人生を終えるのだろうか。
好きだったベランダは自分の好みとは違うすのこのような木が敷かれている。
壁のタイルの目に砂かごみかが入り込んでいて、洗濯物を干している手すりは雨の痕がついている。
こんなだっただろうか、と思う。
なにをどう選んできてこの生活になったのか自分でも見当がつかない。
それでも、これが幸せだと言うんだろうか。
玄関がガチャガチャと開き、わーお、と言いながら百合が駆けてリビングに入ってきた。
「早いね」
俺が言うと、またすぐ出る、と美波が言う。
バッグから公園遊びのものや百合が拾った葉っぱがでてくる。
「ランチ行くはずが子供たちが遊びたい遊びたいって言い出して、思ったより汚れちゃってさ、ママたちと一回帰ってどうせならオシャレしてオシャレな子連れカフェ行こうってなって」
手と体を動かしながらすごいスピードで話すなぁと思いながら黙って聞く。
「赤ちゃんオッケーのとこだからランチのときはいつも騒がしくて避けてたんだけど、百合たちが騒いでも起こられないし、みんなで大声で笑ってもいっかってなってね」
そっかそっか、と言いながら、大きなバッグから財布をハンドバッグに入れ替えるのを見つめる。
「あー!またカーテン開けてる。今から百合お着替えするんだから閉めてってばー!」
あーはいはい、と急いでドアを閉める。
「寒いのに何ドア開けてんの、もー、風邪ひいちゃったらどうするの」
はいはいごめんごめん、とカーテンを閉めると、シャッと勢いよく音が鳴る。
「パパいつも、シャってする、シャって、シャッ!」
百合が言うと、もうちょっと優しくしてほしいよねぇ、と美波が言う。
美波の口調を真似して、ねぇ〜、と百合が言うので、これから先が思いやられる、と思いながら俺は、ごめんごめん、と返した。
「あ、あのね、ママさんの一人が二人目できたみたいなの。体調がいいから全然余裕とか言ってるけど、いろんな意味で余裕あっていいよね」
美波の話に、百合がまた、よねー、と言うので、俺も、ねー、とだけ言う。
「百合も妹がほしいんだって言い出してさ。ほらみんな待ってるから行くよ百合!」
「はぁーい。ママ、ゆりちゃんも妹ほしいの。妹」
百合言うと、美波は、そうなんだってよパパ、と俺を見た。百合は、妹できる?ゆりちゃんのところにも妹くる?ねぇねぇいつくる?と美波のお尻を叩く。
「さぁ、パパに聞いてみないと分からないなぁ」
そう言う美波に、ぽかんとしていると、ママも妹欲しいなぁ、と言って、いってきまーすと背中を向けた。
「妹とは限らないと思うけど」
俺が言うと、百合が不満そうに、妹がいいんだよねぇー、と美波の口調を真似して玄関で靴をはき、いいんだよねぇー、と美波と百合がくすくすと笑って出て行った。
リビングに戻ると、昼間の強い陽射しがカーテンのおかげでゆるくなった陽を床に広がっていた。
カーテンレールみたいにあっちに寄ったりこっちに寄ったり気持ちを振りながら、これが幸せだと思いながらまた繰り返すのか、と感じた。
とっくに出掛けていった美波と百合を思いながら、それもいいんじゃない、と言ってみた。