「これで最後」

カフェのそばで赤ちゃんを抱いている女性がいて、思わず、絵になるなぁ、と敬太は思った。マンションで一度同じような女性を見た事があったような気がして、通り過ぎざまに覗き込むと、かわいい赤ちゃんが、ふぇふぇと息苦しそうに笑った。

いつものショップで取り置きをしてもらっていた服を受け取り、そのまま駐車場へ降りた。昼に近づくと人が増える。そうすると誰かが敬太を見て、なんやかんや言い出すのがイヤでたまらなかった。女優と不倫して奥さんほっといて表参道で買い物してる、とか、こういう男が同じ街にいるだけで気持ち悪い、とか、ミュージシャンだからってなんでも許されるとかウケる、とか、書かれることは容易に想像がついた。そんな単なるつぶやきが明日のテレビになることも分かりすぎるくらい分かっている。

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すぐに自宅につき、駐車場からエレベーターを目指した。マンションのエントランスにもう報道陣はいないけれど、誰が見ているか分からなかった。18階でエレベーターを降り、玄関の鍵を開けると、まだ封をしきれていない段ボールが背丈と同じくらい積み上げられていて、収入が増えてから引っ越したはずなのに何十年分もの荷物があるように感じた。

3ヶ月ぶりに見た明菜は、週刊誌に書いてあったような憔悴してやせ細ったような体ではなかった。もともと細めなのにそれを騒動のせいにしたんだな、と分かった。報道が出る前とは何ら変わらないように見えた。

「調停にならなくてよかったよねぇ」

明菜がさらっとそんなことを言う。いやそもそも週刊誌に撮らせたのお前だろう、と反論したくなるのを抑える。そもそものそもそもは自分が悪いという自覚くらいはあった。

「敬太は引っ越ししなくていいんじゃないの? 私が出て行くんだし」

「いや、だって世間にここバレてるし。それに一人じゃさすがに広すぎると思う」

敬太が言うと、まぁそうね、と興味なさそうに明菜が段ボールに小物を詰めている。

「美優さんは?」

明菜は、女優の名前を自分の友達かのように言う。

「会ってないよ」

「ふーん。じゃあ敬太は一人になっちゃうわけだ。私が出ていって、美優さんは仕事を選んで。敬太は捨てられたわけだ」

敬太は、何も言わずに、持ったままだったショップの紙袋を床に置いて、蛇口の水をコップに注いだ。思っていたより勢い良く水が溜まる。

「別にいいんだよ、気にしなくて。ほとぼりが冷めたらまた美優さんと付き合えばいいじゃん。あれくらいの女優が今回の騒動くらいで急に劣化するとも思えないし」

コップの水を飲んで、少し口元にこぼれたのを手の甲でぬぐった。

「敬太さ、昔からそうだったよね。私がまだスタッフだったときもさ、ファンの子と連絡先交換して会って写メ流されちゃったし、デビューしてから元カノから連絡が来て返事しちゃうしさ」

「ごめん」

「今更何謝ってるの。すごく反省してるっていうのは代理人さんも何度も言ってたし」

「ごめん。俺音楽だけはちゃんとするから」

「ほんとそれだけだよね」

「ごめん」

数ヶ月ぶりに代理人を通さずに会話をしていると、いつもの喧嘩と何ら変わりないように思えた。

「ねぇ、敬太さ、怒っていいんだよ。女優の家に行ったのを週刊誌に知らせたのは私だし、慰謝料を高く見積もったのも私だし、だいたい適齢期だからっていう理由で敬太が納得しないまま婚姻届書かせたのも私だし、バンドが売れるために何人ものメンバーをクビにしてきたのも私だし、美優さんの綺麗な髪を床に擦り付けるように土下座させたのも私なんだから」

あぁそうだったな、と敬太は思う。そして、そういうことが一生続くのかと考えて逃げたくなったのだと思い返す。

明菜は荷造りの終わった段ボールを壁際に寄せた。

「これで最後」

そう言いながら段ボールに、明菜のAという文字を大きく書いた。

「私のには名前書いてあるから、引っ越し屋さんがきたらその段ボールだけ積んでもらって。引っ越し先決まったら教えるつもりではいるけど、慰謝料とかちゃんと時期固まるまでは狭いコーポ暮らしの予定だから、ちゃんと決まってから言うわ」

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敬太は、うん、としか言いようが無かった。

「とりあえず、すぐそばにある葉なか荘ってとこに荷物置いておくことにしたから。間違えて段ボール来ちゃっても車で返せるから」

「うん」

「敬太、後悔してる?」

「してるよ」

「どこから?」

明菜はパンパンと手を叩いて払い、立ち上がった。

「ねぇ、敬太どこから?」

「どこからって?」

「引っ越すことにしたのを後悔したのか、女優と付き合ったのを後悔したのか、結婚したのを後悔したのか、デビューしたのを後悔したのか、私と付き合ったのを後悔したのか、音楽始めたのを後悔したのか、どこからって聞いてるの」

明菜の口調が強くなり、敬太は、目を合わせられない。ただ、後悔してるとしたら、結婚したあたりなんじゃないかと思った。

「そっか」

明菜は見透かしたように溜め息をつき、部屋を見渡した。

「もうこんな高級マンションに住むことなんてないんだろうなぁ。コーポの部屋の引き渡しあるからもう行くね」

「うん、気をつけて。ごめん」

「敬太」

明菜が敬太の正面に立つ。目を合わせるようにと敬太の頬を優しくつねりながら顔を上げさせた。

「愛してた?」

明菜は敬太に言い、敬太は唇をかんで明菜と目を合わせた。

「愛してた」

敬太の返事に明菜は少しほっとしたような表情に見えた。

「明菜は?」

「うん、愛してたよ。10年たつんだもん」

そう言いながら、明菜の目が潤みだしているのが分かった。敬太も、泣きたい気分になる。

「愛してた」

敬太はもう一度言って、明菜を見た。明菜は少し微笑んで、転がしていたハンドバッグを掴んだ。

「愛してたって」

明菜はサンダルに足を入れて、振り返って続けた。

「戻れないよね」

敬太が何も言えないまま、玄関が閉まった。玄関はずっと黒だと思っていたけれどよく見ると深い深い紺色だった。毎日毎日見ていても分からなかった。

積まれた段ボールに目をやると、真新しい段ボールの表面が砂漠のように綺麗だった。その砂の中に引き込まれてもう戻って来られない気がした。