「ハピネスの一室」
今日も帰ってこれたなぁと、おだやかな気持ちでマンションのエントランスに入った。すれ違いざまの高校生くらいの女の子が、部屋着のような格好で早足で出てきて俺を避けた。鼻をすすっているのが聞こえて、風邪ひくぞ、と声をかけたくなってしまう。
えみりが年頃になったら、こんなふうに夜に家を出てどこかへ行ったりするんだろうか、そう考えただけで今から心配でしかたない。上の息子2人はそれなりに大丈夫だろうと思えるが、生まれたばかりの子が女の子であっただけで、こんなにも気をもむ要素が増えるのかと驚く。驚きながら、自分はなんて幸せなんだろうか、と思う。
玄関のチャイムを鳴らすとえみりが起きて泣いてしまうだろうと思い、そっと鍵を開けた。ドアが閉じる音で、息子が、わーっと駆けてくる。ひとりは足に抱きつくように、もう一人はパパおかえりぃと笑っていた。
「なにか変わったことあった?」
毎日同じことを聞いているのを承知で今日も清香に同じことを聞いた。毎日同じことを聞くくらいが落ち着いた日々にふさわしい。
「特になかったよ、大丈夫よ。ね、さっき、えみり寝ちゃったよ。まだ家に連れてきて3ヶ月なのに、ここがお家だって分かるんだね。安心してるみたい」
「そっか、じゃあ上の2人のときとは全然ちがうのな」
「ほんとそう、女の子ってこんな感じなんだね」
そう言う清香に、息子たちが、なになになになにー、と聞く。清香は、パパの顔見れたからねんねするって約束でしょ、と言って2人をベッドルームに連れていった。
スーツをハンガーにかけ、先週伊勢丹で買ったばかりのパジャマに袖を通した。清香と色違いのパジャマは、コットンが特別で肌触りが他のメーカーとは比にならない。
ベビーベッドを覗き込むと、えみりがすーすーと寝息を立てていた。いつも右手をあごの下でグーにしているのがかわいい。
「清香、どうしたのこれ」
えみりのベッドの上に、おむつケーキが置いて飾られていた。おむつをウェディングケーキのように形作ったもので、淡いブルーとピンクのリボンが螺旋状にラッピングの口を縛っていた。
「あ、今日ね、学生時代の友達から届いたの、宅配便で。出産祝いだって。最近会ってなかったのに、びっくりしちゃった」
「おむつケーキ、こんな大きいのあるんだな」
俺が言うと、ね、嬉しいね、と清香もえみりを覗き込んだ。
「仕事でごはん食べてきてるよね、足りてる?」
「うん、大丈夫。清香ももう寝ていいよ。まだ産後っていう期間だろ?」
「もう大丈夫だよ。大変なのは体重がちょっと落ちないくらい」
清香は、へへへ、と笑う。
「出産するたびに言ってるから3回分肉が落ちきれてないってことだな」
俺がいじわるで言うと、清香は、それはそうだけど、とふくれた。毎回同じパターンでこうやって話せるのを清香も気分良く思ってくれてるんだと分かる。
「今日の店さ、ケータリングもやってて個人宅でもいいんだって。今度誰かの誕生日のときに呼ぼうか?」
「え、なんのお店?」
「割烹焼き鳥」
「え、焼き鳥はうちじゃできないでしょ」
「いや、なんか煙とか下に吸い込んでくれるのがあって、持ち込んでくれるんだって。串に刺さったままでも美味しいんだけどさ、そこはちょっと他の手間かけてゼリー添えとか和物っぽく創作して小鉢にして出してくれるんだよ」
「へぇ、おもしろい。ほんとに来たら子供たち喜ぶね」
「だろ? それに清香のお姉さんたちも呼べばいいよ。えみりもまだ1回しか会ってないわけだし。大事だろ、そういうの」
俺の言葉に清香が素直にうなづく。
お風呂に入ってきちゃうね、という清香に、いいよゆっくりして、と返事をして、カバンからスマホを取り出した。そっとベビーベッドにまた寄って行ってえみりの寝顔を撮った。動きのある写真を撮れるんだからえみりがちょっと動いてくれたらいいのに、と思いながら何枚も撮った。
ソファにもたれかかり、SNSを開く。地元の友達から、えみりちゃんの出産おめでとう今度お祝いさせてください、とメッセージが入っていた。子供3人もいて広いマンションで奥さんも優しくて最高そうですねぇいつも近況うらやましいです。と書かれていた。
まぁな、楽しく過ごしてるよ、という返事を簡単にして、うらやましいです、のところを3度くらい読み直した。じんわりとアメーバのように気持ち良さが広がっていくような気がする。
お祝いでもらったおむつケーキや、クマのぬいぐるみたちのそばで眠るえみりの写真を付けて、今日も娘はぐっすり眠っています、お祝いをくれた方々ありがとうございます、とコメントを書いた。
今日は仲の良い友人たちと食べきれないほどのカニとビールで乾杯しました。今日は家族で銀座に来ています、ハリーウィンストン指輪を選んだ時以来です。今日は青山にピザを食べに来ています、ここのは生地が薄くて香ばしいです。今日は家族で妻の友達が立ち上げたジュエリーショップに立ち寄ってみました。今日はプレゼント用のスイーツを妻と選びに来ました。オレンジの香りが爽やかです。
今朝は表参道でティータイムです。
妻のお腹も大きくなってきたので外食締めは妻の好きな恵比寿のイタリアンにしました。
今日は二子玉川に用事があったので終了後に家族と合流しました。これからショッピングです。
今日は家族でミュージカルを見にきています。息子たち始まる前からぐっすりでした。
夜にバカラのグラスが届きました。ワインはまだこれからなので何かいいものがあったらおすすめしてください。
今日は夢の国に来ています。
今日は夢の国のホテルに泊まっています。
今日は南青山をお散歩しています。
妻の出産祝いに伊勢エビを取り寄せました。子供たちも興味津々です。
自分の毎日の記録をスクロールしていく。コメントには、いいなぁや、幸せそうですね、などと並んでいる。そうだろう、と直接言ってまわりたくなる。これが俺の日常で俺の幸せだ。決してひけらかしているわけでも自慢しているわけでもない、これが俺の日常なのだ。
清香がリンビングに戻ってきて、明日も早いんだから寝たら? と心配してくれる。えみりが起きたら泣いて寝れないから早めに寝ていいよ、と言う清香に、まぁまぁ、と言って冷蔵庫からペリエを出してテーブルに置いた。清香はシャワー上がりに炭酸を飲むのが習慣だ。美容にいいといってずっと続けている。
「明日、仕事午後からでもいいから、また表参道散歩でもしようか。車で皇居あたりまで行ってもいいし」
俺が言うと、いいね、と清香が微笑む。帰りにフランボワーズのシフォンケーキ買いたいから寄れる? と聞く清香に、もちろん、と答えた。ベビーカーを押しながら歩道を歩く5人家族の絵が浮かんだ。
ずっと続くのだと思う。
清香と俺が年をとったら、息子2人とえみりが家庭を持ったりして、エントランスで小さなコンサートでもできそうなマンションに住んで、お互いの家を行き来して、時間があれば好きな街を散歩して。美味しい物を食べる。そうやって続いていくのだ。
「清香、子供、3人でいいの?」
そう聞く俺に清香が、えっ、とびっくりしてみせて、もう一人いてもいいかもね、大家族になっちゃう、と笑った。ベビーベッドから、えみりがぐずる声が聞こえ、少しずつ、泣き声に変わっていった。
清香はえみりの頭を撫で、俺はずっと景色を眺めていた。真上からえみりを照らしているシャンデリアがきらめいて、まるで部屋の幸福を吸い込んで散りばめているみたいだと思った。
いいな、と俺が言っても、清香は抱いているえみりを揺らしながら、おしりをずっとぽんぽんとしていた。聞こえなかったのだろう、清香の返事はなかった。