「レジデンススイートルーム」

 

 何人かが私たちを見てそそくさとマンションに入っていったけれど、どれも賃貸の住人だとすぐに分かった。それなら知ったことではない。それよりも目の前のこの女をどうすればいいのか、じっと見つめた。

 「こんな遅くに、非常識じゃないの」

 私が言うと、女は腕時計に目をやって何か言いたげな顔になった。そんなに遅い時間じゃないのでは、と言いたいのかもしれない。

 「あなた分かっていらっしゃらないようだからはっきり申し上げますけれど、いつも夜にこんな小さなお子さんを連れて歩いているのかしら」

 私が言うと、女は、いえ、と小さく口を動かして下を向いた。聞こえないわ。女は花柄のブランケットの中でばたついていた赤ちゃんを抱き上げた。

 「そんな小さな子がいるのならもう寝かしつける時間でしょう」

 すみません、とうっすら耳に届き、なんだか私のほうが間違っているかのような空気を漂わせている。冗談じゃないわ。

 「あの、その、この子のおむつを切らしてしまっていたのでどうしてもすぐに買いにでたんです。いつも夜に連れているわけじゃないですし」

 ですし、という言い回しに不満が籠っているように聞こえる。冗談じゃない。

 「あなたまだ分かっていないようだから言いますけれど、私が一番問題だと思っているのはマンションの入り口にこんな立派なベビーカーをどーんと置かれたら迷惑です、ということなのよ」

 そう言って、溜め息を鼻から出すと、すみません、とまた蚊の鳴くような声で女が言う。ハエの羽音よりも小さいわと思う。

 「すみません、あの渡った先のコンビニには置くところがなくて」

 女は下のほうを見て申し訳なさそうな顔をする。

 「あらぁそうねぇ、だったらご自宅から抱っこして出てくればよかったんじゃないのかしら、うちよりも下の階でエントランスも近いからすぐでしょう?」

 女が黙ったまま赤ちゃんの頭を撫でた。赤ちゃんがいよいよぐずりだそうとしていた。

 「すみません、この子が泣くと声が響いてまたご迷惑をかけてしまうので、失礼します」

 女は赤ちゃんを抱きかかえたまま器用にベビーカーを押してマンションのエントランスを開けた。

 「そういえば、あなたの下の階の方がね、天井がトントンして迷惑ってお話していたわよ、子どもを自由にさせるのもいいけれどきちんとしつけをしてくださいね」

 そう言う私の声は聞こえなかったのか、女はガラスの奥にすすすっと歩いて行った。女のあとをゆっくり追ってマンションの中に戻った。

女の乗ったエレベーターが降りてくるのを待ちながら、さっきからロビーで打合せのようなことをしている男3人が気になった。見るからに賃貸の独身の男の子で、五月蠅くしているわけでもないので、まぁいいでしょうと見過ごすことにした。

一人暮らしや二人暮らしの賃貸住居者は何かあれば賃貸会社が電話なり貼り紙なりをしてくれるのを多多見ていた。

 そうなんすか! という若い男の子の声が響き、今の若い子ってこんな感じなのかしら、と心配になる。

 エレベーターに乗り込み、一番上の15階のボタンを押す。このマンションの中で最上階だ。モデルルームで説明された時の、マンションの中で一番広々使えますし、ご夫婦だけの生活でも毎日がスイートルームの心持ちですよ、と言った販売業者の男の子のセリフも、羨望が含まれていて気に入った。

 鍵を開けると、飼い猫のエルメスがしゃなりしゃなりと歩いて出迎えてくれる。私は、エルメスの額の真ん中に3本の指を埋めて撫でた。うみゃぁ、と言いながらすり寄ってくるので、思わず抱き上げてリビングへ向かった。

 こういうイライラすることがある日に限っていつも旦那がいない。けれど、どこで何をしているかなんて気にもならなかった。新婚の頃こそ手料理に精を出したが、旦那の収入が上がるのと比例して、神楽坂や麻布十番での食事のほうが断然美味しいと思えたし、それが私たちにぴったりな生活スタイルなのだと確信した。

 マンションの、特に下の階の住人たちは一体ここを何だと思っているのだろう。自分たちの好き勝手できる城か何かと勘違いしているのではないか。なるべく交流が持てるように、お金を払ってこの階にだけあるゲストルームを開放し、主婦会をしているのは私なのだ。そして、美味しいケータリングを呼んで振る舞うのも、まだ小さい子どものために2名のベビーシッターを呼んでいるのも私なのだ。このマンションを綺麗なまま、住みやすいまま保っていようとしているのは私なのだ。

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 こんなに真剣なイライラも、旦那に話せば、更年期じゃないのか、と笑って取り合わない。私が更年期ならあなたのほうがよっぽどだわ、と今度言ってやろうかしら、とソファに座るとエルメスが膝に乗ってきた。

 55型のテレビの左右に広がる窓ガラスから、夜空が見える。少し腰を浮かせれば近隣の家の屋根や窓の灯りを見渡すことができる。

 テレビをつけると、週刊誌に掲載され、活動を自粛しているはずのタレントがちらちらと写り、VTR中には特徴的な高い声でキャッキャと笑っているのが聞こえる。

 イスに掛けてあったバッグからスマートフォンを取り出し、放送局の電話番号を調べる。番組ごとに担当の電話番号があればいいのに不親切だわ、と思いながら、表示された番号を押した。しばらくして繋がった電話の向こうでは、20代くらいの女が秘書のような口ぶりで対応する。

 「今ねぇ、テレビを拝見してるんですけれど」

 ご覧頂きありがとうございます、と間髪入れずに返事がくる。

 「なにかしらこの番組のお名前、ええっと」

 動物バラエティーですね、と電話の向こうから返事がくる。

 「そうそう、それに、ほらあのタレントさん出ていらっしゃるでしょう? あの今いろいろと騒がれている女性よ」

 ええと、その番組は既に収録が終了したものを放送しておりまして、と電話の向こうからまた返事がくる。

 「ええ、ええ、分かっていますよ。分かっているけれど、このご時世、編集でも何でもできるでしょう? なのにあんな騒動を起こした子をそのまま映して流すなんて、おたくはそういう社風なのかしらと思って、それに」

 私が言い終わる前に、お気を悪くさせてしまいまして申し訳ございません、と女がさらりと言う。

 「ええ、ええ、いいのよ別に。あなたが何かしたわけではないんですものね。ただ、ちょっとねぇ。あ、これは苦情になるのかしら、ごめんなさいね、そんなつもりじゃないのよ、ちょっと会社としてどうなのかしらぁ、と思ったまでなの」

 はい、はい、と女は返事をし、貴重なご意見をありがとうございました、とハッキリした口調で言い、電話を切った。こちらが切るのを待たずに切ったのが少し気に入らない。

 まったく、と鼻から息をはくと、エルメスが遊んでほしそうに前脚で私をぽんぽんと触れた。エルメスを撫でながら、今度は、次の主婦会の連絡をしなくっちゃと思いだした。

 ひとつ下の会の天野さんに電話をかける。何度か鳴ったものの留守電に切り替わり、咳払いをして伝言を残した。

 次の主婦会のご連絡なんですけれど、お出かけかしら、もうお休みかしら、ごめんなさいねお忙しい時間に。2週間後の金曜日にしようかと思うの。ケータリングはイタリアンのシェフに来ていただこうと思うわ。たまには旦那さんもご一緒にどうかしらと思って金曜日の夕方にしようと思うの。お返事お待ちしているわね、いつも通り奥様方にもお知らせをしておいてくださいね。では。

 何人もの主婦たちが美味しいものを食べ時間を共有できる。その風景を想像すると歓喜の思いが込み上げてくる。子育てに疲れた主婦を癒すのも子供のいない私からの唯一の気遣いになっていることに彼女たちは気づいてくれるに違いない。

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 にゃんにゃんと指を舐めるエルメスのおやつを取りに立ち上がると、CMに切り替わったテレビが住宅展示場を映し、帰りたくなるスイートホームを、と紹介していた。そういえば、モデルルームの男の子が言っていたのは、スイートルームじゃなくてスイートホームだっただろうか、と一瞬迷う。

 この家は、まぎれもなくスイートホームではなくスイートルームだ、と思う。思いながら、そのほうが断然いいんじゃないかしら、とCMに向かって言ってやりたくなる。スマートフォンに手を伸ばそうとすると、エルメスが制止するように手にまとわりつき、私はそのままエルメスを撫でた。